2015/06/11
木の上に立って見る
小学生のとき、校長先生の訓話の中で,一つだけ覚えているものがある。
わたしが通ったのは、ほどほど田舎の町の小学校だった。毎朝校庭に全校生徒が並び、校長先生の話を聞き、体操をする。当時としては、きわめてオーソドックスな朝礼風景だった。
何年生のときだったかも覚えていないが、ある朝。校長先生は朝礼台に立ってこんな話をした。
「親という漢字は、木の上に立って見ると書く。子どもを気づかって、姿が見えなくなるまでずっと見送る親の愛情を表している」という。覚えているのはこれだけだ。
どうしてこれが記憶に残っているのだろうか。オトナになってみれば特に感動的な話だと思わないし、訓話としては非常にオーソドックスではあるのだが、それでも「木の上に立って見る親の姿」は、わたしの記憶に焼き付いている。それほど、これはわたしにとって“強いメッセージ”だった。

昔の先生はよく訓話をした。毎朝朝礼があって校長先生や教頭先生はそれなりのことを話さねばならなかったのだから、ネタの仕入も大変だったろうと、オトナになってからは先生方の苦労がしのばれる。もしかしたら『訓話集』みたいなものがあったのかもしれない。

訓話をすることはなかったが、若いスタッフにどう接していくか、会社をつくってからよく考えた。年齢の開きもあるし時代も違う。頭ごなしに言っても響かないだろうと思った。
考えるときの材料は、自分が若かった頃の気持ちだ。親離れできないワリには、親の言うことは聞かない子どもだったので、自分の気持ちに照らしても、年長者の言うことを自分の立場に置き換えて想像するなんてできないだろうと思っていた。
しかし、分からなくても言っておくべきだとも思った。その根拠が「木の上に立って見る」だ。
だから、どう受け止められようと、言うべきことは言おうと思ってきた。「今は響かなくても、何かを経験すれば、いつか思い出すかもしれない」と。

会社をつくって間もなく29年経つ。その間、在籍してきたスタッフは30人近くになるだろうか。比較的良好な関係を築けた者、そうでない者、いろいろだ。正直言って、「言っておこう」と決心したワリには、「じゃあ何を言ったのだ?」と聞かれると思い出せないのだが、彼、彼女たちの記憶にはどうだろう。少しは残っているのだろうか。
1カ月前に顔を見せてくれた20年前のスタッフMは「基準はわたし」という言葉が忘れられないという。
「オフィスティに居たこと」が、彼、彼女たちの人生になにがしかのいい痕跡を刻んでいることを願う。(Tレックス)


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