2015/06/08
ドナーカードを持たない理由
日経新聞の連載が終わり、作者の久間十義さんの「『禁断のスカルペル』によせて」というメッセージが文化欄に掲載されていた。この新聞小説は「修復腎移植」をテーマにしたものだ。ガンなどの病気があって切除された腎臓を重篤な腎臓病患者に移植する「修復腎移植」は、愛媛県の徳洲会宇和島病院の万波医師が行って成果をあげているが、これに対して国や移植学会が反対している。これを、舞台を東北に移し大震災もからめながら、移植しか助かる道のない患者と、患者を助けたいという家族の思いを、病院や行政の仕組みなどを背景に描いたものだった。
久間さんのメッセージには、20年以上前にテレビ番組のために腎臓移植の取材をした時の話が書かれている。子どもが脳腫瘍で亡くなり、その腎臓を提供した母親が悔やんで慟哭したのだという。「腎臓がないと、子どもが向こうの世界で苦しんでいる」という母親の言葉に、死や臓器に対する人のとらえ方が複雑で多様であることを思い知らされ「腎臓移植は小説に書くまい」と決心したそうだ。しかし、3年前に自身が腎臓ネフローゼを患い、その時に病室で一緒だった患者さんが万波先生によって母親からの生体腎移植手術を受けたことを知り、改めて取材を始めた。そういった内容が、そのメッセージには書かれていた。
子どもの腎臓を提供した決めた母親は、誰かに説得されて決心したのだろうか。それとも、母親が知らない間に、例えば父親など他の親族が提供を決めたのだろうか。それとも、自分が決断したことを後悔しているのだろうか。20年も前のことなので臓器移植に対する抵抗感は今以上に強かったのかもしれない。

わたしは、肝臓を相方に提供した「ドナー」だ。しかし、臓器提供の意志表示カードは持っていない。レシピエントである相方はカードにサインをして持っている。
なぜ、わたしは自分の臓器を提供する気になれないのだろうか。少しずつ整理ができてきた。誰かに臓器を提供することはイヤではないが、わたしの人間性を伴わずに「物」として扱われることに抵抗を感じる・・・といったら、一番近いような気がする。
修復腎移植は一時期「臓器売買」という報道のされ方をしていた。しかし、それが病腎であれ健康腎であれ、提供する方、提供される方、相手を知った上で臓器が移植される方が納得できる。身近な人を助けたい、そのために自分にできることがあるのなら力を尽くしたいと思う。
そういう意味で、わたしはドナーカードよりも修復臓器を含め生体臓器移植の方に共感を持っている。

ところで、『禁断のスカルペル』は消化不良の残る小説だった。主人公を取り巻く狭い人間関係の中でいろいろな物事が展開し、複雑なまま投げ出されてしまった感じだ。
移植に反対する学会の重鎮が修復腎移植を進める主人公の実の父親で、離婚により別れた娘が重度の腎臓障害を持つ患者という設定はまあ許すとしても、腎臓ガンを認識した主人公の実の父親が、実の孫娘のために腎臓を移植したい、移植手術を頼むと主人公に言ってくる。この、かなり無理な(あるいはご都合主義的な)展開が1カ月ほど前のこと。そこから急転直下、移植に後ろ向きな娘の心を動かし「生きよう」と思わせるまでの話がすすんで、いきなり終わった。
修復腎移植のことはともかくとしても、複雑な人間関係は何も動かず、「秘密に」「内緒に」という手術の後、どのように落とし前がつけられるのか、非常にフラストレーションが高まった状態だ。
挿絵画家が『禁断のスカルペル(前編)』と言っているので、その言葉を信用することにしよう。(Tレックス)


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